小野高漢詩校歌

村上 大蔵さん ー第1期(昭和18年度卒)ー

平成4年10月17日発行 創立50年史より

  • 岩手大学名誉教授(岩手大学出身)
  • 第1期 (昭和18年度卒)

在学当時の思い出

田村農蚕学校(小野高校)創立の頃

 先ず最初に、母校小野高等学校が激動する幾多の困難を克服し、ここに創立50周年を迎えることができたことを心から祝福し、この間、母校発展に貢献された歴代の校長先生を始め、教職員および卒業生各位に深甚なる謝意を表するとともに、これを節目として今後母校が限りなく飛躍し発展されんことを祈念いたします。

 母校・田村農蚕学校が地方の要望に応え、現在地に創設されたのは昭和17年のことであった。毀設の県立蚕業試験場小野新町支場内に併設され、先ず二階建ての校舎1棟が建てられた。私は町立小野新町実業学校(二年制)を昭和17年3月に卒業し、同年4月11日に田村農蚕学校の2年生に入学した。入学者は男子1年生が95名、2年生が100名であった。我々2年生はA組とB組に分けられた。 同級生といっても私よりは2~10歳も年上の先輩が両組合せて12名もいた。

 開学当時の教職員には、畊野重政(校長)、佐々木三雄、佐藤完一、鈴木寛郎、玉川静男、高澤幹、渡部清治、平野春信、宇佐神正人、大越軍事教官、浅井義雄、石井彰の諸先生と事務の川田善造先生がおられた。

晴耕雨読の学校生活

 創学当時の学校生活は全く大変なもので、入学式直後から校長先生を先頭に、先生方と生徒が一丸となって学校作りに汗を流した。

 桑の木を掘り起して校庭を作り、西馬場の原野を開墾して農場を造成した。質実剛健の校訓のもと、我々は第一期生の自覚と抱負を持って、晴耕雨読、よく働き、よく勉強したと記憶している。

 当時は太平洋戦争の真っ只中で、軍事教練の強化とともに先生や級友が次々と出征した。昭和17年には、鈴木寛郎先生と渡部清治先生が応召され、18年には、矢島配属将校と級友の村上彰(甲種飛行予科練習生)、大山光雄、矢吹準吾、橋本通の諸君が歓呼の声に送られて雄々しく出征した。

 また、先生にも移動があった。17年には佐々木先生が転任し、その後任に水田四郎先生が、大越教官の後任に吉田久恭教官が赴任された。18年には船田龍助、真船博志の両先生が赴任された。国漢の先生は、鈴木先生出征後は、時田先生が赴任され、次いで松崎龍堂先生へと引き継がれた。

すばらしき先生方

 若い在学当時の私にとって、各先生は大変偉く見えた。初代校長の畊野先生は、大正7年盛岡高農の出身で、威風堂々の風格を有し、また人徳が高く、先生や生徒から尊敬された。先生からは水稲の育種について教わった。新種の稲を作るには10年間の研究が必要なこと、またメンデルの法則も初めて知った。先生から遺伝学の専門書を紹介していただき、これを購入して勉強したことを覚えている。

 また、校長先生は学校の図書室に多数の書籍を購入された。宮沢賢治(畊野校長と盛岡高農時代の同期生)の名を知ったのもその頃であった。

 浅井先生の蛍の解剖や繁殖生理の講義、高澤先生の畜産における栄養学の講義は、特に興味があった。

 私は國漢が大好きで、時田先生の漢文、松崎先生の国語の時間は大変楽しかった。國語の中で「Boys be ambitious, 少年よ大志を抱け」という明言にはいたく刺激され感動したことを覚えている。また、松崎先生の源氏物語や徒然草の名講義は興味津々たるものがあった。

「質実剛健」の母校に感謝

 河川工事の収入で校旗を作り、三八銃を購入して学校充実に貢献したことも思い出深い。また、県下の相撲大会や草刈大会に選手として参加したことも、忘れ得ぬ想い出である。

 入学以来僅か1年8ヶ月の農学校時代であったが、質実剛健と不撓不屈(ふとうふくつ)の精神は、知らず知らずの間に培われ、盛岡農専(旧制盛岡農林専門学校・現在の岩手大学農学部)時代、次いで岩手大学教官として43年の長い間、その職責を果たし得たのは、母校田村農学校の教育の賜物であり、心から感謝する次第である。

昭和47年11月12日発行 30年記念史より

  • 元 岩手大学教授(岩手大学出身)
  • 第1期 (昭和18年度卒)

在学時代の思い出

小野新町に農学校ができる!

 「新町に農学校ができる」この吉報が伝えられたのは、昭和16年の夏頃だったと思う。それまで新町地方には中等学校というものがなく、進学希望者は他の地方に行かねばならなかった。

 このような環境下において、農学校が新設されるということは、地方蚕業発展の上からみても、また進学を希望する青少年からみても、まったく画期的な出来事であった。われわれは、はやる心を抑えてひそかに入学を待っていた。

歴史の第一歩

 昭和17年の早春、県立蚕業試験場小野新町支場(現在の母校の位置)の桑園内に、二階建ての新校舎(6教室)がぽつんと一棟建てられた。そして、3月には入学試験が実施された。4月11日は待望の入学式であった。農業科(男子)2年生100名、1年生95名、18年に女子部生徒97名の入学が許可された。このようにして田村農蚕学校における歴史の第一歩が踏み出されたのである。

 入学後は、当分の間学校造りに専念した。入学式直後、先生と生徒全部が桑の木を掘り起し、校庭を作った。晴天の日は連日野外作業、雨天の日は連日授業、まったく晴耕雨読の学校生活であった。いわず、黙々と全身汗まみれになって働いた。その結果、校舎周辺農場(現在の総合病院付近)の整備も着々と進み、どうにか形だけは農学校らしくなった。

 当時は太平洋戦争の真最中であり、物資は極度に不足していた。それに開校当初とあって、実験実習の設備は、ほとんどなかった。われわれ一期生は、A、Bの2組に分けられ、教室は2階であった。同級生といっても、年令的にはかなりの差があり、奥さんや子供もある蛭田さんや佐藤(忠)さんなどの兄貴も随分多かった。

すばらしい先生方に囲まれて

 初代校長は畊野重政先生であった。恰幅のいい、威厳のある校長先生であった。先生からは、育種、とくに稲の人口交配による育種を教わった。この講義により、メンデルの法則を知り、同時に研究に対する意欲を燃やした。教務主任は佐々木三雄先生であった。いろいろの学問を習ったが、先生は要点を重点的に講義され、魅力のある授業だった。在任僅かで転任されたことは、学校発展からみても惜しい先生だった。後任には水田四郎先生が赴任された。体は小さいが、精神力はきわめて旺盛、農業経済を教わった。玉川先生はおやじという感じの先生だった。作物と土壌を教わった。高沢先生には畜産と剣道、真船先生には、果樹と園芸、渡部先生と平野先生には工芸作物、浅井先生、ついで真船先生には養蚕を、それぞれ教わったように記憶している。

 戦争中なので、軍事教練は物凄いものであった。教官は大越、吉田の両先生と配属将校であった。しかし、大越先生も吉田先生も情のあるよい教官であった。佐藤完一先生は、2-Aの担任であった。社会と英語を教わったが、元気のよい先生だった。国語は最初、鈴木(完)先生であったが、間もなく応召になり、若い時田先生(大学在学中)がしばらく代行された。痩せていたが、発音のよい先生だった。その後、現国の松崎龍堂先生が来校された。「昔、男ありき、、、」の名講義は、今でも本当に懐かしい。数学は宇佐神先生の担当であった。代数と三角を教わったが、講義の内容がよく判らなかった。

苦しい世相の中でも充実した学校生活

 女子部の先生には、斉藤先生と半谷先生がおられた。両先生とも若かったが、女子生徒をよく掌握し、男子部とよく協力して学校建設に活躍された。同じ学校内に男子部と女子部が併置されていたことは、苦しい味気ない世相の中で、お互いに張り合いのあることであった。2年生の夏だったと思う。学生全員が夏井川の河川工事に参加した。その報酬で、立派な校旗が作られ、三八銃も多数整備された。

 戦局は愈々(いよいよ)烈しくなり、矢島教官(配属将校)、次いで渡部先生を戦場に送った。また級友である、大山、矢吹、橋本(通)、村上(彰)の四君も、雄々しく出陣した。終戦後、全員無事帰還されたことは本当に嬉しいことである。

 昭和17年の12月末、厳寒の中で、本校最初の教練査閲が行われた。講評は「極めて可」ということで、他の学校と比べ、優るとも劣らない成績であった。

 農村においては、男子は次々と出征し、労力は極度に不足した。田農健児が勤労奉仕の旗印の下、各町村の農作業に活躍し、きわめて好評を博したのもこの頃である。

 そのほか、翁島廠舎(しょうしゃ)における軍事教練(合宿訓練)、相撲大会(福島市)、草刈大会(南湖)、防空訓練(福島市)など、いずれも忘れ得ぬ想い出の数々である。

母校の限りない発展を夢見て

 このようにして、われわれは、昭和18年12月末、在学僅か1年9ヶ月にして、思い出深い母校を第一回卒業生として巣立ったのである。卒業の日、諸先生は、われわれを真心こめて送ってくれた。級友は、固い固い握手を交し、お互と母校の発展を祈りつつ、校門をあとにした。

 光陰矢のごとく、あれからはや30年が過ぎた。今や母校は、30年の年輪とともに、5,700余名の卒業生を世に送り出した。校舎も全面改築され、県下に誇る一大高校に発展した。卒業生の一人として、こんな嬉しいことはない。

 私も田農第一回生の自覚の下、私なりの努力をしてきた。1年9ヶ月という短い田農生活ではあったが、丈夫な体と不屈不撓の精神力(田農魂)が、知らぬ間に培われたように思われる。これが卒業後における生活の基礎になったことは明白である。教育の力は実に偉大である。少年老易く、学成難し。しかし、残された人生を、教育と研究を通じて社会発展のために寄与したい。

 最後に、今は亡き恩師ならびに級友の冥福を祈る。また母校の限りなく発展することを心から祈念致す次第である。

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