小野高漢詩校歌

高舘 作夫さん ー第10期(昭和28年度卒)ー

平成4年10月17日発行 創立50年史より

  • 元 郡山女子大学 教授(東北大学出身)
  • 第10期 (昭和28年度卒)

高校生の頃の思い出

高校入学の頃

 私が小野高校普通科に入った昭和26年はどういう年であったろうか? サンフランシスコで対日講和条約調印式が行われたのが、昭和26年9月であるから、戦後、占領政治から開放され日本がひとり歩きを始めた年にあたる。そして、朝鮮動乱。

 あの頃は、今思うと物はまだ不足していた。電話のある家は少なく、もちろんテレビもなかった。したがって、高校生の頃の勉強の仕方もだいぶ今とは異なっていたことに気付く。コピーというような便利な機械はなかったから、一字一字丁寧にうつした。冬などは豆たん炬燵に背を丸くしながら、万年筆で、それもカートリッジ式でなく、いちいちインク瓶からスポイトで苦労して入れたりしながら、宿題をやったりした。

 昼食時の弁当のおかずは、のりとけずりこ、梅干しなどが多かった。肉や台湾バナナは贅沢品であった。このように、物は不足していたが、私たちは物の不足を意識することも、それを不満に思うこともなかった。

田村農業高校から小野新町高校へ

 当時、小野高校は従来の田村農業高校から校名を現在の校名(※まだ町が昭和の大合併前だったので名称は小野新町高等学校)に改称し、学科も農業科の他に普通科が出来たばかりであったように思う。私はその普通科に3年間在学した。

 しかし、在学したと言っても私は高校3年間、特定の運動部に入ったわけでもなく、文化活動もしなかった。せいぜい生徒会活動をしたくらいである。また、授業の教科でも特に好きなものはなかった。

 それでいて、私にとって高校生活はとりわけ「幸せ」なひとときであり、快活な青春であった。それはなによりも、第一に、当時の小野高校は牧歌的な雰囲気に満たされていたこと。第二には、良き友に恵まれたことによる。

牧歌的高校生活を満喫

 受験戦争の波がまだ田舎の高校にまで押し寄せなかったからか、あるいはもともと受験校でなかったからか、とにかくずいぶんのんびりしていた。勉強は期末テスト間際にお義理程度にするだけであり、それ以上は間違ってもしなかった。万事このような調子だから受験校にみられるような陰気で遊んでいると見せ掛けてこっそり勉強しているのや、少しでも仲間を出し抜いて点数を稼ごうなどという奴は居なかった。先生方も勉強を強要しなかったし、私達もそれをいいことにソフト(ボール)や草野球に熱中し、またよく映画にも行った。

 したがって、思い出も勉強のことはあまりなく、もしろ、体育の授業を受けるため嬉々として渡り廊下を駆け足で行ったことや、昼休みに弁当の早食いをして、ソフトボールの場所取りに行ったことが懐かしく思い出される。

良き友に恵まれた高校生活

 友にも恵まれた。小野高校の教頭先生の長男であり、私の無二の親友でいつも草野球や(高校生だというのに)缶蹴りをして遊んだ真船徹君、彼は純粋でおそろしく照れ屋であった。それからきりりと引き締まった顔の松田清君、教室で私の席の近くに位置し、ワイワイ騒いだ仲間、吉田豊巳君、折笠昭典君、松崎邦弘君と立て続けに浮かんでくる。いずれも気心を通じ合った友達だ。その後彼らに会っていないから、いつまでも私の脳裏のなかでは彼らは詰め襟の学生服を着た元気な高校生でいる。

 先生についての記憶は少ない。なにやら難しい文語体の文章を番所して私達を辟易させた松崎龍堂先生。教壇の先生は、坊主頭を振り振り、目を輝かせて情熱的に語った。あの時の先生の目が印象に残る。また柔道の大矢先生。長身、大柄、比較的色白、という風体に加えて、大音声で校内を呼ばわって歩き、不心得な生徒には制裁も辞さぬ態度であった。この先生も今は懐かしい。

 とにかく、これらの多くの先生に庇護されながら、私達は珠玉のような高校生活を過ごせたことを感謝している。

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