小野高漢詩校歌

松崎 昭夫さん ー第9期(昭和27年度卒)ー

平成4年10月17日発行 創立50年史より

  • 元 東京大学 農学部教授(東北大学出身)
  • 第9期 (昭和27年度卒)

在学中の思い出

寄宿しながら通学した日々

 昭和25年4月、農学科入学。この年、普通科が併設された。1年生は農学科・家庭科あわせて2クラス80名、普通科2クラス80名の計160名。世界的には朝鮮戦争が起こり、日本は敗戦の痛手から立ち上げる手がかりをつかんだ年でもある。

 当時はまだ食糧不足、米穀配給手帳がないとお米を買うことができない時代であった。農業の形も畜力と手作業が主体、経営的には水田1ヘクタールもあれば生活できた。

 そうした農家の長男坊、これからの農業には高等学校程度の知識が必要であると考え、迷わず農学科へ進学した。出身地はいわき市三和町(旧石城郡三坂村)、磐越東線川前駅から徒歩1時間半はかかる。毎日の通学が無理なので、伯母の家に寄宿した。もちろん食糧持参である。

充実していた専門科目

 校舎は木造2階建て、先輩の2、3年生の中には、旧制時代の伝統が息づいており、後輩の教育に生きがい(?)を感じている人もいたように思う。

 午前中授業、午後実習というのが農学科の標準メニュ。授業は一般教育科目と専門科目およそ半分づつであるから、一般教育の密度は当然、希薄であり、今考えると程度もかなり低かったようである。その分、専門科目は充実しており、当時としてはまずまずの水準にあった。ここ10年余り、はからずもこの時代に使用した事のある教科書の編修に関与し、その感を深くしている。実習も作物栽培・家畜飼育・養蚕と当時の農業を営むためには、ほぼ満足すべきものであったように思う。ただし、個人的にはすでに経験、習熟していることも多く、それほど感激した記憶はない。

斬新だった「ホームプロジェクト」

 実習の一部であったと思うが、「ホームプロジェクト」という教科があった。単に栽培飼育の実際を勉強するだけでなく、それを経営として考えなさい、というものである。自分の家の土地や家畜の一部を利用して実施する建て前であったが、小生は前述のように家からの通学が困難であったので、学校の農場の一部を使わせてもらった。この考え方は、現在も教科「農業基礎」の中にも生かされていつ事を知り、懐かしく思っている。

 社会情勢の変化から、自宅の土地・施設を利用するということではなく、正規の授業時間内にグループで、ひとつのテーマに取り組むという具合にモデファイされてはいる。しかし、自分の力で企画立案し、栽培飼育の実際を体験し、さらに、結果の評価・反省を通じて次のステップへの踏み台とする考え方は、他の分野にも利用できる有用な手法であることを考えれば、むしろ当然であるというべきなのであろうか。

 この考え方が、各件の農業大学校や短期大学でも利用されていることを最近になって知った。

過渡期の中で、「生きることの難しさ」を体験

 学校農業クラブというものもあった。まだ、「体験発表」程度の活動がなされていたに過ぎない幼稚なものであった。今では、農業の各科目の学習活動の一環で、プロジェクト学習の展開を助けるもの、と位置づけられ、組織的にも充実していると聞いている。しかし、当時は、何を、どのように進めたらよいのか、についての指針も十分でなかったのかも知れない。旧制の中等学校から新生高等学校への学制改革の草創期の事、伝統的な系統学習から生活学習への多彩な試みがなされた時期でもあった。門外漢ではあるが、ホームプロジェクトや学校農業クラブ活動などはこうした流れの一環ではなかったかと愚考している。

 新聞活動1年、生徒会活動1年、今でいう「輪切り」も「いじめ」もすでに存在した。人間として生きることの難しさを初めて体験したのもこの頃である。

 卒業は昭和28年3月、ラジオドラマ「君の名は」が銭湯を空にし年であった。

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