創立前史 第3章 青空の下の入学式 その3
戦時下の財政厳しい中で
昭和17年(1942年)3月2日の小野新町の町会において
一、昭和17年度田村農蚕学校分賦金支出の件
本議案を附議する旨を宣し、本案も亦、本会協議会に於て決定したるものなる
を以て、原案をすべて以て可決したると述ぶれば、全員一致賛成し、可決確定す
とあり、この年における小野新町の分賦金は、5,500円と決定した。また同年の議事録によると
田村農蚕学校の充実のため、財産及び町財政を整備し強化を図らんとす。備品費、
銃器、背のう、水筒200人分、1万円、理科3千円、訓練所を要すと 可決
馬番12筆、町有地を実習地として県立移管の時期まで無償貸与するものとす
昭和17年4月6日 提出
仝 決議
田村郡小野新町長 秋元 八郎
とあり、戦時下の財政きびしい中での船出であったが、20年来の夢の実現のため、様々な努力がなされた。田村農蚕学校の船出のために建築された校舎は、文部省の認可に間に合わせるために建てられた一棟、二階建て6教室だけであった。費用は50,000円であった。
小野新町実業学校からの教育委任
田村農蚕学校が設立された事により、その役割を終えたのは、県立蚕業講習部だけではなかった。昭和8年(1933年)創立された、乙種実業学校の小野新町実業学校もまた、その役割を終え、あらたな甲種実業学校である、福島県田村農蚕学校に教育委任する事になるのである。
昭和17年(1942年)3月31日、小野新町実業学校は廃止になり、多くの生徒が(ほぼ全員かもしれない)田村農蚕学校の編集試験を受けた。
昭和17年(1942年)3月24日付 福島民報記事では、
田村農蚕学校の志願好況
24日で〆切だが、22日現在2年は122名、1年は120名突破の好況で、創立早々地方民の非常な期待をうけている。
と、志願者の応募状況まで記事に報道している。
応募地域も浜通りから、田村郡一円はもとより、安積郡・安達郡・石川郡・石城郡、会津方部も耶麻郡、大沼郡、そして双相地区の相馬郡にまでと、ほぼ県内全域にまたがる位広範囲に及んでいた。また、応募者の年齢にも開きがあり、妻帯者の志願者もいた。永い間就業しながら、一大決心をして離職して向学の志を燃やして志願した者も相当数いた。熱烈な進学の希望を抱えながらも、教育環境が不備・不足していた時代、当時の彼らの想いを想像すると、胸が熱くなる。
中等教育機関が点在の当時、また、中等教育にかける経済的余裕のない家庭も多くいる中で、向学心に燃える青少年達は、地域に創立された田村農蚕学校は眩い金字塔のように見えたかもしれない。
3月末の入学試験の結果、2年の編入試験合格者100名(小野新町実業学校が廃止でその関係生徒が主体)、1年生95名が関門を突破して、合格の栄誉を手にした。
夢がかたちに
昭和17年(1942年)4月11日
現在の福島県立小野高等学校の直接の前身である、福島県田村農蚕学校が創立された。
まだ県立に移管されておらず、小野新町・滝根町・飯豊村・夏井村 2町2村組合立であった。現在の小野高校の創立記念日は、入学時の繁忙を避けて5月11日に制定されているが、本来の創立記念日はこの日である。
入学式の参列者は、組合関係町村長、学校組合議員であった。待望の念願が漸く叶っての開校・入学式であったから、関係者は勿論、当地方の喜びは一入であった事は言うまでもない。
思えばここまで長い道のりであった。大正10年(1921年)、田村中学校期成同盟会が発足されてから21年の歳月がながれていた。この日入学する生徒達のほとんどが生まれる前の出来事であったが、あの日、小野新町字仲町の新開座に集った100名を超す有志の
「夢がかたちに」なった瞬間であった。
昭和16年当時の関係町村会議員
昭和16年当時の関係町村会議員であるが、名簿から確実に所属町村が確定できるのが、小野新町の町会議員のみなので、とりあえず小野新町の町会議員を記載する。
町長 矢吹 佐一
秋元 八郎 矢内 幸作 渡辺喜久蔵 大和田留之助 草野 武
吉田 重次郎 小林金伊紋 白石 末松 草野林之助 小泉 賢吾
宗像 徳弥 間野 尊如 吉田 周助 小野音三郎 根本 順忠
小野 泰臣
矢吹佐一 町長
秋元 八郎
矢内 幸作
渡辺喜久蔵
大和田留之助
草野 武
白石 末松
草野林之助
宗像 徳弥
吉田 周助
小野音三郎
根本 順忠
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