小野高漢詩校歌

創立前史  第1章 もう一つの創立記念日 その5

草野県議、春山勇 氏 他十数氏 出県知事に陳情

大正10年(1921年)11月11日付の福島民報の記事は、「田村中学敷地問題で新町側躍起運動」と題して「10日、新町方部を代表して草野誠・春山勇 氏外13名出県し、種々陳情する所ありし」と伝え、同時に「9日、三春町と之に対して正式交渉をなし、三春中学校設立期成同盟会に左の覚書を提出したり」と伝えている。

 その覚書の中で草野良八県議は、「(前略)…三春中学校期成同盟会を起し、同町立中学校を設置するの諭成り、過般突如として郡補助と同時に具体化したり。是れ其発途に疑ひある所にして、町立中学校が始めて生まれたるか、郡補助が始めて生まれたるかにあり。」と述べて、始めから「三春町ありき」で郡の補助を出す事が、公正さを欠くことであると批判している。

 その上で、「吾郡内に中学を設置するに其地を選ぶは小野新町方部を適当とす。是れ何人も争ひを避くる処なるべし。況んや三春町に選定せるに於ては、地理上生徒を充たすの至難の形勢にあり」と続けて、田村中学校期成同盟会ならびに三春中学校期成同盟会に対して、譲歩をもって小野新町方部に田村中学を建設することを要望している。

 この時、県に対しての陳情書は、下記のような内容であった。

(県知事への陳情書)

 

 知事閣下には学校網なるものを県是の内に加へられ、県下枢要の地に中学校を創設し、県下中等教育の普及向上を期さんとするの御趣旨に基き、我郡当局者は斯かる重大問題を暗々裏に進行をなし、以て安積中学に接近せる我郡の一隅なる三春町に決定せるなり。そは、何を主眼として何を基本として決定せるものやを聞くに、三春町は五万石の城下町なり、郡衙の所在地なり、元中学校のありし地なり云々の如き、極めて薄弱なる論拠にして、何等県教育の普及向上を期さんとする御趣旨に違背せるは、言を俟たざるなり。特に汽車の便を以て、日々通学し得らる地なるに於てをや。

 

 然るに、我小野新町地方は東西南北何れの中学校に趣くも十里内外の里数を隔てて容易に中学校教育の恩恵に浴する能はず。遺憾其極に達せる折柄、突如として田村中学校創設の義成れると聞く時、吾地方民は奮然として積年の希望を貫徹すべく茲に組織せり。尤も建設資金の議は、三春町の如く郡民全般の補助を受けず、我小野新町方部関係町村のみにて負担建設するものなり。故に吾人一同は、県教育の普及中等教育機関の分布交通の至便といふ見地より、地の理を得たる我地方に建設の認可を切望し、而して吾等は地方民を代表して連署を以て陳情する所以なり。

県会議員  草野 良八 

        春山 勇  

  外300余名 

  大正10年11月

   福島県知事 宮田 光雄 殿

田村中学 小野新町具体化す

 大正10年(1921年)12月29日付の福島民報は、このように伝えている。

中学校を小野新町方部に設定すべく、同地方民は県当局の得嚮をたたき、並に各方面に渡って極力躍起運動を開始し、着々具体化しつつありし処、愈々設置資金の予算も成り、今12月28日、町会を開き、全会一致を以て設立の決議をなし、益々基礎を強固ならしめ、目的を貫徹し得るも近きにあらんと。

 

 また、大正10年(1921年)の小野新町事務報告によると

 

「本年に於て町会を開きたるは数6回にして、此の日数は14日、町長より提出の案件は議案26件…而して中学校建設問題に於て、多少意見の衝突を見たることありたれども、毎会塾れも一致協力、円満裡に議決協賛をなし、理事者の執行に便宜を与へられたる議員各位の町政発展の意図に対し、感謝措く能はざる所なりとす。」とあり、中学校建設に対する白熱した議論と、地域発展への想いが伝わってくる。

 しかし、郡をまたいだ小野地方の1町12ヶ村の人々の願いもむなしく、翌大正11年(1922年)3月4日、三春町は田村中学校の建設候補地を三春町内から4ヶ所を選定し、県に申請した。そして、県から現在の田村高校の地が指定され、ここに田村中学校は、三春町に設置される事が確定したのである。

 幻の田村中学校。旧制中学を小野新町へと誘致すべく熱き想いを胸に活動してきた人々の夢は、ここに潰えた。

(つづく)

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